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とても、嫌な予感がした。
最低限の明かりしかない薄暗い病棟の廊下で、銀龍はふと歩みを止めた。遠くから聞こえる、徐々に近付いてくるそれは救急車のサイレン。今晩の当直医のメンバーを頭の中で確認してから、銀龍は颯爽と白衣を翻して医局へと再び歩みを進める。すると、首から掛けたPHSが電子音を奏でて持ち主の気が重くなるような着信を告げた。
『雲居先生、急患です』
了解と短く返せば知らず知らずのうちにため息が漏れる。今日で夜勤は三日目。
「今夜も仕事か…」
***
ぱたり。
巻紙の端を切ろうとした時つい手元が狂って小柄が己の指先を傷付けた。真白い紙の上に深紅の雫が落ちて、みるみるうちに染みに変わっていく。勘兵衛は、それを見て眉をひそめ、嘆息した。どうにも近頃、精神が落ち着かぬ。わざわざ手当てするのも面倒だと指先を口に含めば、金錆びた味が口内に広がった。それと同時に鼻に抜けた血の匂いが、ふと前世の記憶を呼び覚ます。濃い血臭と慣れ親しんだ甘い香りと白い肌に散る深紅の鮮血。
「七…」
ぞくぞくと言い様のない悪寒が背筋をなぞっていく。遠くを走る車の走行音ぐらいしか聞こえない静まり返った室内で、その静寂を嫌うように勘兵衛の携帯電話が鳴った。 ディスプレイに表示された発信者は――…。
「銀龍…?」
『すまぬ、寝ていたか?』
「いや」
それよりどうした?と勘兵衛が問えば銀龍は微妙に言葉を濁す。どうやら病棟にいるらしく、人の声や走り回る音が電話越しに聞こえた。
『先程、ちと大掛かりな事故があってな』
年末だからと浮かれていたのか、はたまた急いでいたのか。複数の歩行者と車が何台も絡む大事故。近場の救急病院だけでは捌ききれず、銀龍の勤める大学病院にも何名か患者が運ばれてきた。
『七郎次が…うちの病院に運ばれてきた』
処置室に運び込まれた時、おびただしい血に染まっていたために最初は気付かなかった。しかし、その明るい金の髪に既視感を覚えて…。
「七、が…?」
『すぐに、病院に来ることはできないだろうか?』
「…………」
自分が関われば、彼の少年が掴んだ幸せを無くすことになるかもしれない。それに――。
「家族が居るだろう?儂よりも先に、そちらへ連絡しなくてよいのか?」
生憎、自分はあまり恵まれてはいなかったけれど、それでもちゃんと親の死に目に会える位には普通の家庭だった。
『…七には親がいないそうだ。ずっと、施設育ちだったらしい……』
だからだろうか、彼がずっとずっと転生したかも分からない主を探し続けていたのは。
『家業故にお前が悩むのも分からないではないが』
天涯孤独の身の彼に、少しばかりその身の温もりを分け与えてやっても罰は当たらぬだろう、と彼らの血の繋がりよりも強い筈の絆を知っている銀龍は静かに言う。
「できぬ」
普段ならば抑えることもできたかもしれない。しかし、この時ばかりはそれもかなわず、彼女は激怒した。
『島田、お前は七郎次の事を思ってなどいない。お前が七郎次に会えぬのは、今世での罪に浸かった自分を見られたくないからだろう?侍だった貴方が何故、となじられるのが怖いだけだ』
本当はこんな事を言いたくなかった。彼はとっくに自分で気付いているから。
そして、
相手によって通話が強制終了された事を伝える単調な電子音に銀龍はため息をつきながら携帯電話を閉じると、ひっつめていた髪を解いた。
「馬鹿が…」
集中治療室を見渡す事ができる大きなガラス越し、真白い空間に横たわる七郎次には様々な機器から伸びる管が複数繋がれおり、纏う青の療養着は彼の肌の白さを際立たせていた。手慣れた仕草で銀龍は手指の消毒をすると、集中治療室の引き戸を開ける。ざっと異常が無いかを確認してから、部屋の隅に置かれた椅子を引き摺ってきた。枕元に座ってから、そっと頬にかかった長めの前髪を指で払ってやる。
「なんで男と言うのは、感情のままに動こうとはしないんだろうな」
変な意地とプライド、そんなものを後生大事に抱えてみたって仕方無かろうに。そう銀龍は静かに問いかけて、彼の端正な顔をただひたすら眺めていた。
***
酷く重い瞼を苦労してこじ開ければ、白い天井と見覚えのある銀髪が視界に入る。こんな見事な髪を持つ人はあの方だけだとその名を紡げば、かすれた声しか出ないのがもどかしい。
「七、わかるか?」
徐々にはっきりしてくる意識と共に下肢に走る激痛。はい、と返事をすれば、銀龍が微笑んだように見えた。七郎次が目覚めたのはちょうど朝の回診の時で、未だ自分に起こった事を飲み込めぬ彼に、事故に遭った事、そして自分が主治医になった事等を銀髪の女医は丁寧に説明していく。
「同乗者も命に別状はない」
「よかった」
凛とした所も、知的な美貌も昔と全く変わらない。ただ少し、若い気がするのは気のせいだろうか。たしか前世で主はこの女性と同い年だったはずだ。と言うことは、自分と主の年の差も少し縮んでいるのだろうか。
「…島田は?…とは聞かないのだな…」
「え?」
やっと転生人と出逢えたと言うのに、彼は主の事を聞かない。
「…なんだか、恐ろしくなってしまって」
実を言えば、勘兵衛様の事は色々と噂に聞いていた。あれは確か、政治家が主催したパーティーだったか…自宅に招待された事があったのだが、そこで飾られていた白扇に七郎次は目を奪われた。
幾世へて後か忘れん 散りぬべき野辺の秋萩みがく月夜を 深養父
何か、和歌集の和歌だろうか。男性が書いたものらしく女性のような柔らかさは無いが、柳のようなしなやかさを感じる。そして何よりこれは…。
勘兵衛様の筆跡だ――。
友人の書道家に書いて貰ったというそれ、この政治家にとっては幅広い交遊関係を誇示するための物でしかないかもしれないけれど、七郎次にとってはやっと掴んだ“彼”への足掛かり。
『ここだけの話ですが…』
その書道家、島田風月の本性は関東地区の広い範囲の裏社会を支配する極道、六花会の総代島田勘兵衛。
やっと、手が届く…。
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*和歌語訳
(深養父・後撰集317)
いかに時を経ても忘れはしまい。こぼれんばかりの野辺の萩を照り輝かせる月の夜を
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